twitterは人と「死」を近づけるのか

こんにちは。WYPの川口です。

先週は多くの著名人が亡くなる悲しい週でしたね。
相次ぐ死をtwitter上で知ったからか、twitterと死の関係性について考えさせられました。

まずはその速報性。
今まではせいぜいYahoo!のトップページを見たときにしか入らなかった人の「死」の情報が、今ではいやがおうにもタイムライン上に流れてきます。それも著名人から一般人まで。
その速報性足るや、公式発表より早く「デマ」と疑われるほどです。

そして死者への共感性。
この言い方が正しいかどうかは分かりませんが、今までは例えばニュースステーションの追悼コーナーで、あーこんな人だったんだとなんとなく知り、感じていた死者への思い。それが、twitter上ではその人の関連記事はもちろん、一人一人の死者との思い出まで知ることになります。
最後に会ったのはいつだとか、あの時はこんな素晴らしいことを言っていた、あの人の作品は…。自分がそこまで思い入れのなかった死者に対しても、死者への思いを共感することとなります。

最後に、現実性です。
twitterでは、自分の周りのリアルな出来事とは全く別の、「自分がフォローしている人々のリアル」が垣間見れます。その「他者のリアル」では、もちろん自らの病気と闘っていたり、知人の死に悲しむ姿も見られます。
そして、昨日まで元気なtweetをしていた人が、突然交通事故で亡くなったり、病気で急死したりすることもあります。その事実を知ったときの無常観は、なんともいえません。
たとえ「他人のリアル」であっても、タイムラインで流れていたということは少なからず「自分のリアル」でもあったのです。その結果、今自分がこのtweetを最後にいなくなっているかも、とすら思わせるのです。
今まで、これほど身の周り以外の「死」をリアルに感じさせるツールはあったでしょうか。

twitterは、スポーツ中継やライブなどで喜びや興奮を共有できるツールでもありますが、悲しみや恐怖を増幅させてしまうこともあります。震災直後、twitterばかり見ていてどんどんネガティブな思考になっていき、意外と外のスーパーにでも行ってみると、そこら辺にいる人みんな普通だった、というのはよく聞いた話です。

死を忘れた日本人』に詳しく考察されていますが、現代日本の多くの人にとっては宗教が生活の一部ではありません。核家族の増加、家ではなく病院での死の増加に伴い、子どもの頃からなかなか死を感じる場面はありません。
(もちろん、そもそも世界最長の寿命を誇る日本だからというのもあります。)

本来人間は、宗教により、そして身近な人の死により、死への「予行練習」を行います。
2年前インドに行き、ガンジス川のほとりで火葬を行っている光景を見たとき、そして赤ん坊の死体が捨てられているのを見たとき、日本では全く忘れてしまっていた「死」を思い起こさせられました。

そして今、現代日本では意外なものが人と「死」を近づけているのです。

@shunkawaguchi