【WYPなう】新たな地域出版の形をつくる(2) 「自分の力で生きていく」に至るまで

Photography by MOTOKOPhotography by MOTOKO

 

世界各地でこれからの生き方、働き方を模索しているWYP編集メンバー4人。
【WYPなう】は、それぞれの「今」についてメンバー同士インタビューをする企画です。
初回記事ではそれぞれの一日の過ごし方を紹介しましたが、2回目は「なぜ今の働き方を選んだのか?」「これからどんな生き方をしていきたいのか?」を掘り下げていきます。
今回は、神奈川県真鶴町で地域の出版事業を立ち上げ最中の、編集長 川口に話を聞きました。

▼前回の記事はこちら▼
新たな地域出版の形をつくる(1) 真鶴の一日

 

 

「自分の力で生きていきたい」という思い

 

フィリピン・バギオ

フィリピン・バギオにて。街は若者であふれ、新興国の勢いを感じさせる。

 

– まず簡単に、東京の会社を辞めてから真鶴にいたるまでの経緯を教えてください。

 

2014年の6月に会社を辞めたあと、まずはフィリピンのバギオというところに8ヶ月の語学留学に行きました。
その間、8〜9月はWYPのデンマーク取材ヨーロッパの書店めぐりに行ったりもしています。

その間に考えていたのは、日本に帰ったら東京ではなくどこか地方に移住しようということです。
そこで今年の1月末に日本に帰国してからは、小豆島や神山町など、地方移住の候補地めぐりを経て、3月中旬から真鶴に住み始めました。

 

– なるほど。そもそも会社を辞めた理由はなんだったのでしょうか?

 

なんというか、自分の中ではすごく自然な流れだったんです。
大学のときに芽生えた「自分の力で何かを作り上げたい」という思いが、徐々に大きくなったというか……。
もともと大学受験で失敗して、浪人しているときに、「同じ世代の人に遅れをとらないように、絶対に大学に入ったら人とは違う大学生活を送ろう」、と思っていました。
それで入学してから、テニスサークルを立ち上げたり、ファッションショーをやったりと、手当たり次第にいろんなことをやっていました。その中で、ゼロから自分たちで何かをつくりあげることの、快感というか、楽しさを知ったんです。

あとは大学4年次にやった、SPBS(SHIBUYA PUBLISHING & BOOK SELLERS)でのインターンですね。まだ立ち上げ時のSPBSの空気を感じられて、代表の福井さんとほぼ毎日一緒に昼食を食べていたことは、かなり影響を受けていると思います。

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当時川口が企画したFREITAG POP UP STORE at SPBSと広告営業・編集に関わったROCKS Vol.6。Photography by akihiko kanke

 

それで「いつかは会社に頼らずに自分の力で生きられるようになりたい」と思い始めて、働き出した後もその気持ちを忘れないようにとWYPの活動を始めました。
そしてWYPの活動を通して、よりその思いが強くなったんです。
と同時に、これまで自分がなにをやりたいのかもやもやしていたんですが、自分がやりたいことが“出版”なんじゃないかと気づいたんです。

 

– WYPの活動を通して「自分の力で生きたい」という気持ちが強くなったのはなぜですか?

 

インド特集0号では、国境関係なく物事を考えるインドの若者に出会うことで、これからの世界で生きられるようになるには、自分もそう考えるべきだ、そうならないとまずいんじゃないかと考えるようになりました。
インド人のエリート層は、英語ができて、しかも海外で働いたほうがより良い収入、環境で働けるので、国境を越えることにためらいがないんですよ。

2011年8月のインド取材中の一枚。(写真左:川口、右:近藤)

2011年8月のインド取材中の一枚。(写真左:川口、右:近藤)

日本特集0.5号では、会社に勤めていない人たちを中心に取材しました。
そうしたらみんな自分よりもリスクをとっている人たち、自分の信念に従って生きていたんです。
もっと自分も、自分の信念に従っていいんだ、と思うようになりました。
自分の信念とはなにかと考えてみたら、「自分の力で生きたい」ということだったんですね。

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0.5号での写真家下屋敷和文氏へのインタビュー(写真右が川口)

– その中でも“出版”で生きたいという思いが強くなったのはなぜですか?

 

いくつか理由はあって、一つはWYPでの出版活動が楽しかったからですね。
なにもないところから実在するものができるということが、ワクワクするんです。
テーマを決めて、内容を決めて、文章ができて、写真ができて、デザインができて、それが印刷して出てくる。出来上がった瞬間の感動はなんとも言えないですよね。
紙ものは成果物(雑誌)を人に見せやすくて、感動を共有しやすいところも好きですし。

あとは、自分たちでつくった雑誌が売れたことや、渋谷ヒカリエ内のaiimaという場所での展示(「働く合間に雑誌をつくる」展)の成功が自信につながったというのが大きかったですね。

天の邪鬼なので、みんながITって言ってると、逆に紙ものをやりたくなったというところもあるし、せっかくSPBSで出版、本に出会って、そこから続けることもできたのは、何かの縁かなと。

 

バギオで住んでいたゲストハウスTALA

バギオで住んでいたゲストハウスTALA

語学学校卒業時の一枚

 語学学校卒業時の一枚

– フィリピンへ語学留学に行った理由はなんだったんでしょうか?

 

英語を勉強したいと思っていたところに、ちょうどパートナーの來住がバギオのNGOで働くことになったので、一緒に行こうと決めたんです。バギオは英語学校が多いことで有名なところだったんです。

 

– なぜ英語を?

 

インド取材の経験から、「自分の力で生きていく」上で、日本だけでなく海外でも生きていけるようにならないといけないと思っていたからです。
それに英語の出版物も今後つくりたいので、そのためには英語は必須だな、と。

 

 

 

縁が引き寄せた真鶴との出会い

 

神奈川県真鶴町

神奈川県真鶴町。いつも空と海が広がっている。

– バギオでの語学留学を経て、いよいよ真鶴への移住を開始したとのことだったんですが、真鶴のことを知ったきっかけを教えてもらえますか?

 

フィリピンから日本へ帰国する2日前、もともと知り合いであり、地方で積極的に活動されてる写真家のMOTOKOさんとスカイプをしたんです。
その時に地方移住を検討していることを伝えたら、真鶴のことを教えてくれたんです。
そして、帰国して2日後には真鶴を見に行きました。

 

– 2日後!実際見に行った時はどんな印象を抱いたんですか?

 

うまく表現できないんですけど、なんというか、「文学好きな人が好みそうな感じ」がしたんです。
あとは静か、のんびり、懐かしいという印象も受けましたね。

 

– なるほど、それでその後、真鶴に移住することを決めたんですよね?

 

真鶴町が企画した2週間のお試し暮らしを経て、正式に真鶴に住むことを決めました。
なんだか“縁”のようなものを感じたので。

 

 

会社を辞めて2年の今、思うこと。

真鶴、三ツ石海岸にて。 Photography by kazufumi shimoyashiki

– 「自分の力で生きたい」という思いから会社を辞めてから2年弱経った今、その思いは実現できていると思いますか?

 

実現……という意味では、まだまだ「自分の力で生きられる」と胸を張って言えないので実現できていないですね。
でも会社を辞めたことを後悔したことはないですよ。

会社にいたときは、大きな船に乗客していて、そこから大海に飛び降りようかどうかと悩んでいました。
今は飛び降りたあと、小さな船で必死に漕いでいる感じで、来月大丈夫だろうかという悩みがあります。
でも自分にとってはこの悩みのほうが健全な悩みな気がして、気持ちいいですね。胸につっかかっているものがない状態というか。この船がもっと頑丈な船になったときに実現できたといえるんだと思います。

 

– 地方移住、そして起業を半年間経験してきてなにか気づいたことはありますか?

 

会社を辞めたあと、フィリピンでもヨーロッパでも真鶴でも他の地方でも、いろんな人に出会った結果、自分の思っていた以上に“先を進んでいる人たち”がたくさんいたんです。自分は“出遅れたな”と思うくらい。

彼らは自分よりもずっと前に東京から離れていて、海外に行ったり地方に行ったり、それぞれの土地で面白いことを始めている。
しかもそんな人たち同士のコミュニティが出来上がっていて、北から南まで各土地のキーパーソンはお互いを認知しているんですよ。

東京を無視して面白いことをどんどん進めている彼らのコミュニティを見て、とてもワクワクしました。
いずれはそういう人たちを紹介していくこともしていきたいなと思います。