彼女こそ新世代のリーダーである。『わたし、解体はじめました』

watashikaitai

驚いた。おそらく今年一番影響を受ける本になると思うのが、この本、『わたし、解体はじめました ─狩猟女子の暮らしづくり─』である。

最初に彼女を知ったのは、例のブログが炎上したときだった。うさぎの解体を写真付きでアップし、大炎上していたのだ。ご多分に漏れず私のタイムラインにも流れてきたので、チラッとブログを見たのを覚えている。そのときは「とんでもないことしてる女の子がいるなぁ」としか思わず、なんだかもともと違う世界に住んでいる、奇抜な考えを持っている人なのかと思っていた。

しかし、本書を読み進めるとその印象はすぐに間違いであったことに気づく。彼女が解体・狩猟に興味を持ったきっかけは3.11であり、つい最近のことなのだ。それまでは「鶏を抱いたことすらない」、普通の女の子だったそうだ。

3.11を経験し、「25年間の一生の中で一番、家族のことを考えた」という彼女は、震災後に行われた家族会議のあとにこんなことを思う。

そのときから、私の中にある強い気持ちが生まれたのです。それは「絶対に生き抜いてやる」という生きることへの強い執着心でした。私が生き抜くことが家族を守ることになるんだったら、絶対に死にたくない。

そして──。

これからは世の中がどんなに変化しても、たとえお金という手段が使えなくなっても、自分の足で立ち、幸せに暮らしていく生き方をしなければ──。

よくそこまで飛躍するな……とも思うが、こうして彼女は、「食べものを自分でなんとかする」ことを目指すことになる。

彼女の命に対する姿勢は、決して突拍子のないものではない。「狩猟女子」と聞くとなんだか肉食系の女の子のように感じるが、実際のところ彼女は「ゆるベジタリアン」であり、必要なければ肉は食べないとのことだ。それも解体・狩猟を始めた結果考え方が変わったものだという。

また、他の人にその考えを強要するわけでもない。大炎上したブログを余所に彼女は言う。「立場によって、受け取り方は人それぞれだ」と。淡々と命について語るその文章からは、どこか達観した、芯を持った女性の姿がみえる。

さて、「食べものを自分でなんとかする」ようになった彼女は、もはや私たち(普通の、日本社会に生きる人)と生きるレイヤーが全く違う。大抵の日本に住む人間が、仕事のことや人間関係のことに悩んでるのに比べて、(人の悩みの種類に優劣はないが、)彼女の悩みは「どうやったらイノシシを捕まえられるんだろう」である。しかも、そんな彼女が狩猟の師匠に受けたアドバイスはこうだ。

「もっと山に入りなさい」とアドバイスされました。日常的に山に入ること。獣たちが通る道、動物たちの足跡、枝の位置、落ちている葉っぱの種類、餌となる木の実たちなど、小さな変化をしっかり観察すること。そして、イノシシの気持ちになって考えてみること。

「イノシシの気持ちになって…」なんてアドバイスされることが、普段生活していてあるだろうか。ただ、彼女の今の生活にとってはそれが普通のことなのである。そしてこの本を読み終わった今、今後の世界ではもしかしたらもう一度このぐらい自然に回帰することが必要になってくるんじゃないかと真剣に思った。

人が肉を食べるということは、その背景にはどこかで死んだ動物がいる。必ずその動物を殺している人がいる。自分たちと同じように楽しんだり、悩んだりしているかもしれない。もしくは、生まれたときからそんな感情すら持てない環境にいるかもしれない。そうやって動物を扱うことは、果たして正しいことなのか?

じゃあベジタリアンになればいいかというと、いやいや、植物を育てるために殺されている動物たちもいる。そもそも植物だって命を持ってるし、動物と一体何が違うのか?「食べる」ということは、必ず何かしらの「命を奪う」ことになる。 果たして「食べる」ためにどこまで「命を奪って」いいのか?このことに結論はたぶん、ない。ただ少なくとも、「奪っていること」を「認識しない」のはおかしいのではないか。だから彼女はその問題に真剣に向き合おうとする。つまり、自らの手で命を「育てて、殺して、食べる」のだ。

人間は科学を用いて自然を客観的に捉えることにより進歩を遂げた。ただ、行き過ぎた効率化が命の価値を見えづらくし、普通に生活しているだけではその命を「認識」すらしなくなった。現にこの本を読む前の先々週までの自分である。ほんとにそれで大丈夫?と本書は問う。そろそろこの関係を見直すときが来たのではないか。

初めて自分で絞めた鶏を食べ終わった後、彼女はこう感想を述べる。

鶏を絞めて食べるということ。それだけを見ると残酷なように映るかもしれませんが、「命を奪って食べる」よりも「さっきの鶏が自分の一部になった」という感覚のほうがしっくりくる気がします。首を落とした瞬間に命がなくなるのではなく、私の体の中で形を変えて生きているような……。

「鶏が自分の一部になった」──。もはや彼女は科学を超えている。もしかしたら彼女は、ここ数百年続いている人間と自然の関係を、次の段階に持っていこうとしている人なのかもしれない。彼女が切り開いた道に、(すぐ後ろから進むのはちょっとハードルが高いにしても、)私たちは必ずこれから向き合って、考えていかなければいけない。

普段生活していると、「食べるもの」は「命がない」ことが当たり前であった。そこに「命があった」ことを、私は生まれて初めて認識した。